消費者金融大手の栄華盛衰~アイフル

今年は貸金業法が本格施行されて10年になります。

1960年代の高度経済成長期に生まれ、「サラ金」と呼ばれながらも驚異的な発展を遂げた消費者金融業界。

規制強化によって経営破たんや合併、メガバンク傘下入りなど、劇的な変遷を遂げてきた業界大手の今昔をご紹介します。

社名変更を機に東京進出

アイフル1967年、いまもなお同社を率いる福田吉孝社長が京都で開業しました。アコム(1936年)、プロミス(1962年)、レイク(1964年)の「関西3強」に次ぐ第4の勢力、関東の武富士(1966年)に遅れること1年の営業開始でした。

82年に現社名に変更したのを機に全国展開、念願の東京を果たします。

「都内で記者会見があったが、福田社長がとても若いので驚いた。40歳くらいだったか、腰が低くて好感の持てる青年社長という感じがした」(金融業界紙記者)

この時期は「サラ金3悪」(高金利・過剰融資・過剰取り立て)など貸金業に対するバッシングが高まり、貸金業規制法(1983年)が施行されて業務規制が強化されました。

1984年には準大手だったヤタガイクレジットが倒産するなど、業界は厳しい環境にありました。しかし一方ではバブル経済が始まった時期でもあり、業界では中小零細業者の淘汰とともに大手の躍進が始まります。

連絡会の協定に強く反発

アイフルは大手5社の中では最後発でしたが、東京進出以降は福田社長の強烈なカリスマのもとで拡大路線をひた走ります。

同社に限らず、バブル景気を背景に90年代の消費者金融業界は黙っていても増収増益を続伸していたのです。

消費者金融は景気に強いと言われます。金欠状態ならば借り入れは伸び、懐具合が良ければ良いで「チョイ借り」の需要も増えるのです。

だから、バブルがあってもなくても業界は好調を維持したのです。

しかし1997年、大蔵省が自己破産・多重債務者の急増を問題視し、消費者金融大手に対策を講じるよう求めました。

これを受けて大手5社(武富士・アコム・プロミス・アイフル・三洋信販)は、消費者金融連絡会という談合組織を組成します。

そこで決まったのは、「連絡会5社のなかでは、利用者1人当たりの貸し付け業者数は原則3社、例外的に4社」という、曖昧な協定でした。

「三洋信販は九州が地盤で、複数社での借り入れは少なく、こうした縛りは痛手にはならない。原則3社に強硬に反対したのは、当時業界4位のアイフル。

どうしても譲れないというので、妙な例外規定を作るハメになった」(業界関係者)

消費者金融大手では、アコムとプロミスが好感度争いを演じており、武富士、アイフルがこれに続くという構図でした。

消費者金融で金を借りる際には、この順番で借り入れを増やす人が多く、「原則3社」の規制があるとアイフルははじかれる可能性が高いため、連絡会の協定に強く反発したのです。

業界トップで絶頂期、銀行買収も視野に

2000年3月、アイフルは大手で最後となる東証一部上場を果たします。

翌年3月にはメインバンクである日本長期信用銀行(現・新生銀行)の破たんで会社更生法の適用を受けた信販大手・ライフを買収し業界をあっといわせます。

ライフ買収を巡っては国内外合わせて5社(連合)がつばぜり合いを演じていました。

そのなかで当初は最も下馬評が低かったアイフルが落札できたのは、同社のメインバンク・住友信託銀行(現・三井住友信託銀行)の資金支援によるところ大だった、というのが大方の見方です。

その背景には、長銀との合併が取り沙汰されて住友信託の株価が急落した際、福田社長が住信の株式を買い支えるなど、両者の蜜月があったからです。

ライフ買収の年である01年には住友信託銀行とともに事業ローン会社「ビジネクスト」を設立、04年に消費者金融中堅の「ワイド」を買収するなど拡大戦略をいっそう強化しました。

ライフ買収で一躍業界トップに躍り出たアイフルの福田社長は04年当時、まさに絶頂期にありました。

その年の中間期事業報告書である「株主通信」には、福田社長のビッグマウス振りがよく表れています。

業界再編について語ったくだりでは、業界再編は必至であるとの認識から総合金融化戦略を進め、先手を打ってライフ買収を行ったと自画自賛。

メガバンクグループの傘下に入ったアコム、プロミスを槍玉に挙げ、

「一方、他社はこのような総合金融化戦略を採らなかったため、顧客・残高の減少の中で減収・減益となり、最後の選択肢として大手銀行の傘下に入ることを選択したものと思われます」

と見おろしました。そのうえで今後の戦略として、

「事業者ローン分野では、チャンスがあれば銀行を買収し、中小企業ローンを一気呵成に拡大させ、銀行買収が難しい場合には、銀行との提携路線での拡大を図ります」

と、ついには銀行買収まで言及することになるのです。実際、05年1月には第二地銀大手の東日本銀行の筆頭株主になりました。

アイフルのこうした自信過剰ともいえる経営姿勢は、金融庁の官僚たちの神経を逆なでしたとの情報もありました。

「登録業者に過ぎないサラ金風情(ふぜい)が免許業者の銀行を買収する? 誰がそんな戯言を言っているんだっ! と当局はカンカンでした」(消費者金融大手関係者)

アイフルが筆頭株主となった当時の東日本銀行の頭取は、旧大蔵省官僚の鏡味徳房氏。当局はアイフルに対する不快感を隠さなかったとの話もあります。

業界初の全店業務停止命で暗転

ところが、出る杭は打たれます。

06年4月、金融庁はアイフルに対して行政処分を下しました。

四国・九州の支店などが行った取り立て行為に貸金業規制法違反が認められるとして、違反店舗に最大約1ヶ月の業務停止命令と、業界では初めてとなる全店業務停止命令3日間という異例の処分でした。

福田社長は同年5月の決算会見で一連の行政処分に対して謝罪し、「現在は再発防止を最優先事項と考えており、上限金利問題への対応には着手できていない」などと、ひたすら低姿勢に終始しました。

(会見する福田社長=左から2番目・2006年5月16日 東京証券取引所)

行政処分以降、アイフルは営業自粛を決め同社を一躍有名にした、あのテレビCM「チワワのくうーちゃん」も打ち切ります。

新規顧客件数も行政処分後は6割ダウン。同社の業績不振はここから始まりました。

チワワの「くうーちゃん」CMの大ヒットで、アイフルはこれまでアコムとプロミスの2社で競っていた消費者金融業界における「好感度NO1」の座を初めて射止めましたが、行政処分を受けた後はCMともども人気が急降下したのです。

CM自粛はこの業界では、死を意味します。

街中でポケットティッシュを配り、深夜でもCMを流して初めて利用してくれる客が来るのがこの業界。

アイフルはその後の営業自粛ですっかり疲弊しました。アイフルの行政処分は業界への規制強化に火を付け、その年に成立した貸金業法に繋がった、と業界内部からは恨み節が出ていました。

08年には営業自粛による業績不振と過払い金請求で経営危機に陥り、銀行などの借入先に対して3千億円にも上る融資の返済猶予をしてもらい、危機を脱出しました。

15年にその借金を完済し、巻き返しの時期に入っていますが、営業利益は10年前の5%、顧客数は3割と大手3社の中では断トツの落ち込みです。

福田社長の後任には長男で同社専務の光秀氏が有力ですが、大和証券を経て入社6年目の37歳とまだ若く、古希を迎えるオーナーの続投路線はしばらく続くと見られています。

また、メインバンク・三井住友信託の庇護が続く限り、大きく水を空けられてはいるものの、業界3位の座は当分維持できそうです。

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