消費者金融大手の栄華盛衰~プロミス

今年は貸金業法が本格施行されて10年になります。

1960年代の高度経済成長期に生まれ、「サラ金」と呼ばれながらも驚異的な発展を遂げた消費者金融業界。規制強化によって経営破たんや合併、メガバンク傘下入りなど、劇的な変遷を遂げてきた業界大手の今昔をご紹介します。

関西で創業

プロミスは1962年、今年6月に死去した神内良一氏(1926-―2017)が大阪で「関西金融株式会社」を設立したのが始まりです。

神内氏は貧しい農家に生まれ、戦後は仕事を転々としました。一時期は郷里の香川県で、現在の農林省の出先機関にも勤務、ここで労働組合活動にも関わっていたとの話もあります。

世の中の様々な矛盾に対する怒りや思いが強かったようで、亡くなるまで従事していた北海道での農業経営のかたわら、各団体への寄付を生涯にわたって続けるなど、熱心な慈善活動で知られる篤志家でした。

同社のOBは、「そうした弱者救済への思いが、銀行から借りられない人に対する小口貸付という消費者金融業へ向かわせたのではないでしょうか」とも話しています。

69年に東京進出を果たした同社は「東京プロミス」を発足。このころからプロミスの社名を使うようになりました。

そして関西プロミスなど関連3社を整理統合して、1980年にプロミス株式会社と商号変更しました。

黒字倒産の危機

1983年、いわゆるサラ金問題で消費者金融の「高金利・過剰融資・過剰取り立て」が社会問題化し、貸金業規制法ができました。

同時に、貸金業者に事業資金を融資している銀行に対して、融資自粛を呼びかける銀行局長通達も出されました。

これにより、都市銀行などから融資を受けていたプロミスは、消費者ローンで順調に利益を出しながら、一方で融資に回す資金が不足する事態に陥り、黒字倒産の危機に直面したのです。前述のOBがこう話します。

「銀行融資がストップしてしまったので、新規融資の資金は、既存顧客の返済だけが頼り、という状況になりました。

そこで支店の社員総出で回収に飛び回り、その返済金を新しいお客さんに貸し付ける自転車操業がしばらく続きました」

しかしこの通達には抜け道がありました。「銀行でなければ融資しても良い」という立て付けだったのです。

そこで、プロミスには長期信用銀行や保険会社が融資の手を差し伸べ、日本生命・住友生命・住友信託銀行・日本長期信用銀行(いずれも社名は当時)などで作った協調融資団が、同社を資金面からしばらく支えていました。

1760通りの与信判断

プロミスは、消費者金融業界におけるプライスリーダーでもありました。

貸金業法で融資金利が利息制限法と同等になる前は、年利29.2%が貸金業の上限金利でしたが、プロミスは当時25.5%を上限としており、業界で最も低金利で貸し付ていました。

注目すべきは、同社が審査のありようを公開していたことです。

申し込み時の審査に用いる属性情報は氏名、年齢や勤務先、年収、持ち家情報など10数項目。これを掛け合わせて32通りのテーブルを作ります。この掛け合わせ方は企業秘密とされています。

次に個人信用情報センターから他社借り入れ状況を見ます。業界大手6社(武富士・アコム・プロミス・アイフル・レイク・三洋信販)は1997年、6社内での借り入れを原則3件、最大4件を限度とする6社協定を結びました。

これで借り入れ件数0件から4件の5通りのケースが想定されます。同社は全国を11ブロックに分けて営業しており、それぞれの地域特性による審査基準が11通りあります。

これで32×5×11=1760通りの貸し付けテーブルが得られることになります。つまり1760種類の融資パターンがある、ということになります。

当時、こうした与信システムを公開している貸金業者はひとつもありませんでした。

創業者の長男が早逝、神内オーナー悲痛

2001年、オーナー・神内良一氏の長男である神内英樹氏が47歳の若さで亡くなりました。1999年に突然副社長を退任して業界を驚かせましたが、病が進行していたのでした。

プロミスは当時、コーポレートカラーなども一新するなど2代目社長の誕生を控えて第二の創業期を迎えていましたが、後継者の早すぎる死は、禅譲が既定路線だったオーナーにとって痛恨でした。

消費者金融業界は当時、過去最高の利益を上げていた絶頂期。業界4位のアイフルが5000億円近い資金を出して、信販大手のライフを買収する時代でした。神内オーナーの落胆は大きく、プロミス売却の話が水面下で起きていたほどです。

「長男を亡くしたその年に、神内さんから『会社を売りたい』と、ウチの社長に相談があったと聞いている。大事な取引先でもあるし、買収について検討した」(某信託銀行元役員)

メガバンクを渡り歩く

1999年、さくら銀行(現三井住友銀行)が三洋信販との合弁で初の都銀系消費者金融である「さくらローンパートナー」(のちに「アットローン」)の設立を発表した直後、三和銀行と同行系列の信販大手アプラスの3社で、同じく都銀系消費者金融「モビット」の設立を発表します。

同社は2000年に営業を開始。順調な滑り出しで、消費者金融の高収益を望む都市銀行の期待に応えていくことになり、三和銀行との親密度を深めていきました。

しかし、その後、三和銀行がUFJホールディングス設立を経て三菱UFJFGと経営統合する過程で、プロミスは変転の歴史を刻むことになります。

2005年6月、プロミスは三井住友FGと資本業務提携します。

2005年10月にUFJHDが三菱UFJFGと経営統合することで、プロミスはモビットを共同設立した旧三和(UFJ)銀行との縁が薄れる一方、三井住友銀行がノンバンク戦略に注力していたため、この提携が実現しました。

そして、都銀系の消費者金融であるアットローンとモビットの合併、さらには、さくら銀行と親密だった三洋信販とプロミスの合併も視野に入っていたのです。

貸金業法で資金パイプ確保、メガ傘下に

2006年、最高裁がグレーゾーンを否定する判断を出して過払い金請求が急増し、上限金利引き下げを盛り込んだ貸金業法が制定されるに及んで、消費者金融は瀕死の重傷を負いました。

2009年10月、プロミスは記者会見を開き、三井住友銀行出身の久保健副社長が社長に昇格し、神内博喜社長が代表権のない会長に退くトップ人事を発表しました。

創業家出身で99年から10年間社長を務めた陣内氏は、「経営環境は依然厳しく、来年6月に迫った貸金業法完全施行を前に、三井住友銀行との連携を強化しスピード感を持って事業の抜本的改革を進めるべきだと判断した」などと、社長交代の理由を述べました。

神内博喜社長と久保健副社長
(2009年10月8日 東京証券取引所)

同社の筆頭株主である三井住友銀行から転身した久保氏を社長に起用することで信用補完ができるとの思惑が働き、期中にもかかわらず異例のトップ人事となったのです。

消費者金融大手といえども、必死の生き残り策を打ち出す時期に入ってきたのでした。神内家のプロミス支配は完全になくなり、オーナー家が経営から退きました。

2010年には過払い金請求の増大で赤字に陥り、大規模リストラを敢行。有人店舗の全廃と指名解雇を経て2011年、三井住友FGの子会社になり、SMBCコンシューマーファイナンスと社名を変更し、現在に至ります。

後継者の早すぎる死を契機に、都銀との関係を深めながらも業容が先細っていった印象を拭えません。

なお、都銀と作った消費者金融・モビットは竹中直人のCMが続いており、業容はプロミス本体を補完する実績を上げています。

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